よう、久しぶりだな。
久しぶりの更新だ。みんな元気にしていたかな?
今日は、最近話題になっている「トロッコ問題」の道徳教育への活用の是非についてのわたしの意見を書かせてもらおう。
これは私の質問箱への投稿に回答した内容をもとに再構成し、文章化している。
結論から言うと実施は否。教材として不適切。保護者の苦情は理解する。
私は教職課程で「児童心理学」「教育心理学」、後学のために学んだ「コーチング心理学」程度しか心理学については学べていない。つまり門外漢であることを前提に話をしている。 皆もそれを前提に読んでいただきたい。
スクールカウンセラーの責任は重い
私は、この「トロッコ問題」を道徳の授業として持ち込んだスクールカウンセラーの罪は許されるべきではないと考える。 理由は、本格的に心理を学んだ者であると仮定するならば、そうとう闇墜ちした「サイコパス」による「人体実験」「児童虐待」と考えるからである。
トロッコ問題は、人の状況変化と心理変化を顕在化するための実験である。このカウンセラーはそれを知ったうえで今回の授業(実験)を実施した可能性が非常に高い。このトロッコ問題は、「ジレンマ」を知る上での心理実験である。
だがあくまで実験だ。そこに道徳的観点はない。
そもそも「トロッコ問題」とは
質問の内容はこうだ。
「あなたはトロッコが一本道から二本道へと分岐する分岐点にいる。目の前にはトロッコの行き先を変えることができるレバーがある。
分岐した片方の先には5人の作業員が作業をしている。もう片方には1人の作業員が作業をしている。
トロッコは制動が利かなくなり、分岐点に向かってきている。止めることはできない。このままだと5人の作業員の方へ進み、5人の作業員は死亡するだろう。
君が分岐点を切り替えれば、5人は助かる。が、もう一方で作業していた1人が確実に死亡する。
君は分岐を操作すべきか?」
というものだ。
実際にこの問題では多くの被験者が、「5人を救う」選択をしたと記録されている。 しかしこの実験には続きの質問がある。
「あなたはトロッコが下を通る橋の上にいる。あなたの隣には体格のいい人がいる。トロッコの進む先には5人の作業員がいる。
体格のいい人を橋から突き落としてトロッコに轢かせればトロッコは止まり5人は助かる。だが落とされた人は確実に死ぬ。
あなたは隣にいる体格のいい人を突き落とすべきか?」
今度も一人を犠牲にしてより多くの命を救う問いだが、今度は多くの被験者は「5人を救わない」選択をした。
これがジレンマだ。
最初の質問は被験者がトロッコを操作した結果五人が助かり一人が死ぬ。 次の質問では被験者が積極的に一人を殺すことで、その結果五人が助かる。
結果は五人助かる。と同じだが、被験者の「関わり方」によって被験者の選択が変わるという結果が得られた実験だった。
この心理の動きを被験者にもしっかりと説明し、「正義と選択のあいまいさ」をきちんと認識させることができれば、被験者に無用な不安感を与えることはなかっただろう。 実際にはさらにたくさんのバリエーション問題が出され、人間の心理の偏重や選択根拠を実証するための「実験」なのである。
なぜ道徳教育と結びつけたのか
もし今回の小中学生の道徳授業を行ったスクールカウンセラーが、心理学を修める過程でこの実験を知っていたならば、これが道徳教育と結びつくものではないということはわかっていたのではないだろうか?
ではなぜあえてやったのか? これは私見ではあるが今回の授業は、このスクールカウンセラーの知的好奇心からの「実験」に学校現場が使われてしまった可能性が拭えない。現場の混乱が意図せずこの「実験」の結果としてカウンセラーに提示され、彼(彼女?)の知的好奇心を満たしたに過ぎないのではと危惧している。考えすぎだろうか?
困ったときは周りに相談、には結びつかない
質問は分岐の切り替えの一つだけ、フォローも特になく、「困ったときは周りに助けを求めよう」と結論付けるのではあまりにもお粗末ではないだろうか?
スクールカウンセラーが心理学のプロだったならば、本当にこれで十分なフォローと結論付けるとは考えにくい。
確かに、選択に困ったと感じた子にとっては「なるほど確かに周りに相談するのは大事だ。」と納得した子もいるかもしれない。
だが、
「周りに相談している間にトロッコが進んで五人死んじゃうよ?」
「私はもし相談されたら責任転嫁されたみたいで答えられないな。」
「いや俺は相談などしない、自分の考えで一人を殺し五人を救う、これが正義だ!」
「そもそも自分が他人の生き死にに関わるべきではない、だから放置。」
と考えた子供たちもいただろう、そこへのアプローチはしたのか?これらの子にとって、相談することの大切さは今回の教材で腑に落ちるのか?疑問が多い。
サイコパス研究者の実験に教育現場が利用されないように
日々の技術の進歩や科学の発展は、研究者の果てしない探求心と開発者のたゆまぬ努力によって成り立っている。そのことに対する敬意と感謝には一点の曇りもない。
だが、研究者の探求心・好奇心は時に暴走する可能性があることも忘れてはいけない。
通常莫大な費用をかけて被験者を募り、倫理的考査も踏まえながら万全の体制を整えて臨むべき実験。
それが、目の前に何も知らない被験者があるとして、被験者に気づかれずに無料で実験ができる地位や知識を自分だけが持っていたとしたら。
「未来の為」との免罪符のもと、核実験のボタンを押してしまうのが研究者の性、いや人間の性なのである。
この性自体は認めざるを得ないのだから、コントロールするしかないのである。
やり方がまずかった、だけでは済まされない。
「心理学の専門家だから安心して任せていた。」
ではダメだ。
私たちは教育の専門家として、これら特別授業に関しても、通常授業と同じく「指導目標」や「身につけさせたい力」「教育的効果」と常に照らし合わせながら導入していく必要があるだろう。
以上が私の、トロッコ問題が道徳授業に適さないと考える考察と説明だ。理解不足や言葉足らずが多いであろうことも十分理解している。
だから、これを読んでくれた皆もあくまで「一つの意見」として理解していただけるとありがたい。 長文駄文失礼した。
大導寺 匠
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